記録と記憶

2月3日に阪神タイガース元監督の吉田義男氏が亡くなられました。享年91歳です。

現役時代は「牛若丸」と呼ばれ華麗な守備で遊撃手の要としてご活躍されました。盗塁王も2回取られております。
長年の功績をたたえ、吉田氏の現役時代の背番号「23」は永久欠番となっております。

私の世代は、1985年に阪神タイガースを初の日本一に導いた監督のイメージが強いのではないでしょうか。特にバース・掛布・岡田の強力打線は圧巻でした。このクリーンアップの活躍が阪神タイガースの優勝に大きく貢献したのは間違いない事実です。

しかし、吉田義男監督は優勝パーティの席上でこう述べています。

「優勝の立役者は川藤幸三である」

その年の川藤幸三氏の打撃成績は28打数5安打の打率0.179でした。お世辞にも好成績とは言いません。では何故、彼が優勝の立役者なのでしょうか?

正直、このころの川藤幸三氏は代打の切り札ほどの選手でもなく、ほぼ試合にも出ない日々が続いていました。しかし、彼は毎日午前中に甲子園球場に来ては打ち込みをしていました。いつ来るかわからない出番のためにです。

また、ベンチ内では曲者ぞろいのチームのまとめ役として存在感をフルに発揮しています。つまり川藤幸三氏は「選手」としてではなく「人間」としての魅力で吉田義男監督をバックアップしていたのです。彼の野球に対する姿勢や考え方、そして人としての魅力が阪神タイガースをワンチームにしたのです。

置かれた環境で自らのやるべきことを理解することは、今の自分を否定することにもつながります。それでもチームのために甘んじてその環境を受け入れた川藤幸三氏は正に優勝の立役者です。その話を聞いて単なる酒飲みで口の悪い“おっちゃん”のイメージは変わりました。川藤幸三さん、本当にすみませんでした。

ちなみに、以下はその2年前の出来事です。

球団から引退勧告を受けた川藤幸三氏は「給料が半分になっても阪神タイガースに置いといてくれ」と泣いて頼んだそうです。「好きなタイガースにいれるなら、銭はいらん!」というセリフが「芸のためなら女房も捨てる」という桂春団冶の名言から“男川藤・浪花の春団冶”というニックネームにつながったとのこと。 記録に残る吉田義男氏と記憶に残る川藤幸三氏。阪神ファンにとってはどちらも素敵なエピソードですね。